1992年3月10日、私はこの世に産まれた。
母も父も22歳。
当時としても、比較的若い夫婦だったと思う。
私の中に残っている一番古い記憶は、保育園の頃。
年中から年長くらいだったと思う。
私は可愛いものが大好きだった。
フリフリの服が好きで、ピンクが好きで、当時の私は自分のことも大好きだった。
保育園のアルバムを見ると、「将来の夢」の欄には堂々と、
「お姫様」
と書いてある。
今見ると、なんとも可愛らしい。
そんな私について、当時の先生が残してくれた印象は、
「怒りんぼうさん」
「年下の子とよく遊ぶ」
だった。
多分、結構わがままな子どもだったんだと思う。
幼少期には、あまりいい思い出がない
正直に言うと、幼少期から学生時代を抜けるまで、私にはあまりいい思い出がない。
何がきっかけだったのかは全く覚えていない。
ただ、保育園では同じクラスのガキ大将みたいな男の子によく嫌なことをされていた。
ジャングルジムから落とされたり、鉄棒から落とされたり。
そんな記憶が残っている。
クラスの女の子たちから意地悪をされたこともあった。
「固い泥団子が作れるようになるまで仲間に入れてあげない」
とか。
子ども同士の世界ではよくあることなのかもしれない。
でも当時の私にとっては、その小さな世界が世界のすべてだった。
そして私は私で、かなりこだわりの強い子どもだった。
当時、保育園にあったピンクのスクーターがお気に入りだった。
園庭で遊ぶ時は、絶対にそれじゃないと嫌。
誰かに取られた時には発狂していた記憶まである。
今考えると、
「そりゃ先生も怒りんぼうさんって書くわ」
と思う(笑)
今の時代だったら、発達検査を受けていたかもしれない
大人になった今、当時の自分を振り返って思うことがある。
今の時代に子どもだったら、私は一度くらい発達検査を受けていたんじゃないだろうか。
もちろん、実際のところは分からない。
早生まれだったことも関係していたのかもしれない。
ただ、
「みんなは普通にできているのに、なんで私はできないんだろう」
と思うことが多かった。
特に覚えているのが竹馬。
周りの子たちが次々と乗れるようになっていく中、私はなかなか乗れなかった。
最後まで一人で練習していた。
それでも練習を続けて、最終的にはちゃんと乗れるようになった。
今思えば、この頃から私は、
器用に最初からできるタイプではないけれど、できないまま終わるのも嫌なタイプ
だったのかもしれない。
なぜか同い年とうまくいかなかった
そして私は、なぜか同い年の子たちとうまく馴染めなかった。
意地悪されることも多かったし、自分自身も同年代の輪の中に入ることがあまり得意ではなかったんだと思う。
だから、よく年下の子と遊んでいた。
先生が残してくれた、
「年下の子とよく遊ぶ」
という言葉。
昔は何とも思わなかったけれど、大人になって読み返すと、
「ああ、そういうことだったのかもしれないな」
と思う。
同年代の集団の中でうまく立ち回るより、年下の子と遊んでいる方が、当時の私には居心地が良かったのかもしれない。
家庭も「子ども中心」ではなかった
家庭環境についても、大人になった今だから思うことがある。
今の基準で考えれば、
「それ、普通にアウトじゃない?」
と思うことも結構ある。
例えば私は、4歳くらいの頃には近所のお店へ親のタバコを買いに行っていた。
もちろん当時と今では時代が違う。
今なら絶対にできない。
そして私の両親は、どちらかというと、
「子ども中心」より「夫婦中心」
の人たちだった。
親と一緒に公園へ行ったとか、
家族みんなで何かをして遊んだとか。
そういう記憶は、あまりない。
その代わり、両親が友達を家に呼んで、一晩中麻雀をしていた記憶はある。
大人たちは大人たちで楽しんでいた。
私は祖母や叔母に預けられることも多かった。
大好きだった、おじいちゃんとおばあちゃんの家
そんな幼少期の中でも、祖父母の家で過ごした時間は、私にとってすごく楽しい思い出として残っている。
祖母の家に行けば、優しいおじいちゃんとおばあちゃんがいた。
そして二人は、私に本当にいろんな経験をさせてくれた。
おじいちゃんの家には、赤と白の色をした、今では見かけないようなものすごく古いゲーム機があった。
それでおじいちゃんとスーパーマリオをした。
ゲームが大好きになった原点は、もしかしたらここなのかもしれない。
おじいちゃんは配達の仕事をしていた。
仕事について行かせてもらって、トラックの後ろに乗り、おじいちゃんの配達のお手伝いをする。
子どもの私にとって、それはただのお手伝いではなく、ちょっとした冒険だった。
そして配達の帰りには海へ寄る。
二人でカニを探した。
今考えれば、ものすごく特別な場所に連れて行ってもらったわけではない。
ゲームをして。
トラックに乗って。
仕事について行って。
海でカニを探す。
でも、私にとっては全部が楽しかった。
家に帰れば、おばあちゃんが晩ご飯を作って待っていた。
おじいちゃんのお酒のおつまみも一緒に並んでいて、私は自分の晩ご飯より、おじいちゃんのおつまみばかり食べていたっけ。(笑)
そして、3人で行く銭湯。
あれも本当に楽しかった。
お風呂に入って、家に帰って、夜になれば3人で寝る。
私は真っ暗な部屋が怖かった。
だからおばあちゃんは、私のために豆電気をつけてくれた。
そして隣で寝てくれた。
今になって考えると、本当に何気ないことばかりだ。
でも30年以上経った今でも覚えている。
それくらい、私にとって大切な時間だったんだと思う。
家に帰ると、夜はまったく違った
祖父母の家では、
「暗いのが怖い」
と言えば、豆電気をつけてもらえた。
隣にはおばあちゃんがいてくれた。
でも、自分の家に帰ると違った。
母は、寝かしつけをするようなタイプではなかった。
「寝ろ」
と言われれば、それで終わり。
強制的に寝る部屋へ入れられた。
まだ小さかった私は、一人で寝るのが怖かった。
泣くこともあった。
でも、泣けば押し入れに入れられる。
あるいは玄関に放り出される。
だから私は、
声を出さずに泣いていた。
泣いていることがバレないように。
声をあげないように。
ただ涙だけを流していた。
何歳の頃だったのか、正確には覚えていない。
でも、その時のことは覚えている。
怖かったことも。
声を出したらいけないと思っていたことも。
そして、静かに泣いていたことも。
大人になった今なら分かる。
小さな子どもが暗い部屋を怖がることなんて、何もおかしくない。
眠るまで誰かにそばにいてほしいと思うことも、
怖くて泣くことも、
本来なら叱られるようなことではない。
でも当時の私は、そんなことを知らない。
親がすることが、その家の「普通」だった。
だから、
「うちのお母さんはおかしい」
なんて考えたこともなかった。
ただ、
泣いたらもっと怖いことになる。
それだけを覚えていた。
だから声を殺した。
こうして書いてみると、私の幼少期には、まったく違う二つの場所があったんだと思う。
祖父母の家では、
怖いと言えば明かりをつけてもらえた。
一緒にゲームをしてもらえた。
仕事について行けば、お手伝いをさせてもらえた。
帰りには海へ寄ってもらえた。
ご飯を一緒に食べて、
銭湯へ行って、
夜になれば隣で寝てもらえた。
そこでは私は、
「子ども」でいてよかった。
一方、自分の家では、
怖くても我慢する。
泣きたくても声を出さない。
言われたことには従う。
そんなことを少しずつ覚えていった。
だからなのかもしれない。
幼少期から学生時代までを振り返ると、つらかった記憶もたくさんあるのに、
おじいちゃんとおばあちゃんとの記憶だけは、不思議なくらい温かい。
二人が私の人生にいてくれたことは、本当に大きかったんだと思う。
もしあの頃、
家にも学校にもどこにも安心できる場所がなかったら、
私はどうなっていたんだろう。
それは今でも分からない。
ただ、
トラックに乗っておじいちゃんについて行ったこと。
海で一緒にカニを探したこと。
おばあちゃんの作ったおつまみを横から食べたこと。
3人で銭湯へ行ったこと。
そして夜、
小さな豆電気の明かりの中で、おばあちゃんの隣で安心して眠ったこと。
そんな何でもない記憶が、
今でもちゃんと私の中に残っている。
幼かった私にとって、あの家はきっと、
安心して子どもでいられる場所だった。
でも、親もまだ20代だった
ここまで書くと、
「ひどい親だったんだな」
と思われるかもしれない。
実際、今の感覚で考えれば「それはダメだろう」と思うこともたくさんある。
でも34歳になって、自分自身が親になった今だから思うこともある。
当時の母も父も、まだ20代だった。
22歳で私を産んでいる。
私が保育園に通っていた頃だって、まだ20代半ば。
今の私より、ずっと若い。
若くして子どもを産んで、二人なりに精一杯育ててくれていた部分も、確かにあったんだと思う。
父とはよく一緒にお風呂に入った。
その記憶はちゃんと残っている。
七五三や誕生日などのイベントは、盛大にお祝いしてもらった。
昔のアルバムを見ると、大量のプレゼントに囲まれて嬉しそうにしている私の写真もある。
きっとお金だって、たくさんかかっていただろう。
可愛い服もたくさん着せてもらった。
欲しいものも買ってもらった。
写真だって残してくれている。
だから、
「愛されていなかった」
とは思わない。
多分、愛されていた。
ただ、
親も私の愛し方が分からなかったんだろうな
と、今は思う。
愛情って、子どもを産んだからといって自動的に上手に伝えられるものではないんだと思う。
誕生日を盛大に祝うことも愛情。
プレゼントをたくさん買うことも愛情。
子どもが誰かに傷つけられたら、本気で怒ることも愛情。
でも、
怖い時に抱きしめる。
泣いている時に話を聞く。
眠れない時に隣にいる。
子どもの気持ちを受け止める。
そういう愛情の伝え方もある。
私の両親は、前者はできても、後者があまり得意ではなかったのかもしれない。
母が怒鳴り込んだ日
保育園で、私をよくいじめてくる男の子がいた。
ジャングルジムから落とされたこともあった。
その時、母は相当怒ったらしい。
相手の家まで怒鳴り込みに行った。
今思えば、それも母なりの、
「自分の娘を守らなければ」
だったんだと思う。
普段は泣いた私を押し入れに入れるような母なのに、
外で誰かに傷つけられたら、ものすごい勢いで守ろうとする。
矛盾しているようだけど、人間って多分そんなものなんだと思う。
完璧な悪い親でもなければ、
完璧な良い親でもない。
母にも母なりの愛情があった。
ただ、その表現の仕方が不器用だった。
そして後から知った。
私をいじめていたその男の子も、家庭環境が複雑だったらしい。
親にあまり構ってもらえていなかった。
その寂しさや苛立ちを、周りの子どもにぶつけていたのだと思う。
もちろん、だから私をいじめていいという話ではない。
ジャングルジムから落とされた私は普通に怖かったし、嫌だった。
子どもの私にとっては、
「家庭環境が複雑だから仕方ない」
なんて知ったことではない。
ただ、大人になった今なら少しだけ分かる。
あの子もきっと、
自分の中にあるどうしようもない感情の扱い方が分からなかったんだろうな。
親に構ってほしい。
寂しい。
腹が立つ。
でも、それをどう伝えたらいいのか分からない。
だから、自分より弱い誰かにぶつける。
まだ小さな子どもだったあの子には、それしか方法がなかったのかもしれない。
そう考えると、幼少期の記憶って不思議だ。
子どもの頃は、
「いじめてくる嫌なやつ」
「怖いお母さん」
「優しいおじいちゃんとおばあちゃん」
くらいにしか世界を分けられなかった。
でも大人になって振り返ると、
その一人一人にも人生があったことが分かる。
母も若かった。
父も若かった。
私をいじめていた男の子も、まだ小さな子どもだった。
祖父母にだって、きっと私の知らない苦労があった。
みんなそれぞれ自分の人生を生きていて、
その中で私と関わっていた。
そして今、私自身も4人の子どもを育てている。
親になって初めて分かったこともたくさんある。
子どもを愛していることと、
毎日優しくできることは別物だということ。
大切だからといって、
いつでも正しい対応ができるわけではないこと。
余裕がなくなれば怒るし、
後から、
「あんな言い方しなくてもよかったな」
と反省することもある。
子どもを産む前の私は、
親というものはもっと完成された大人だと思っていた。
でも違った。
親もただの人間だった。
子どもが産まれた瞬間に、人格まで完成するわけじゃない。
22歳なら22歳の人間が、
突然「お母さん」「お父さん」と呼ばれるようになるだけ。
きっと私の両親もそうだった。
分からないなりに育てて、
間違えて、
怒って、
それでも誕生日には大量のプレゼントを用意して、
七五三には晴れ着を着せて、
娘がいじめられれば相手の家まで怒鳴り込んだ。
不器用だった。
今なら、そう思う。
だからといって、
幼い頃の私が怖かった記憶まで、
「親も若かったから仕方ない」
と消してしまおうとは思わない。
怖かったものは怖かった。
寂しかったものは寂しかった。
声を出さずに泣いていた小さな私に、
「お母さんも若かったんだから我慢しなさい」
なんて言いたくない。
それと同時に、
両親の愛情まで全部否定したいとも思わない。
傷ついた記憶と、愛されていた記憶は、両方あっていい。
今の私はそう思っている。
人間はそんなに単純じゃない。
家族なら、なおさら。
大人になって人生を振り返るというのは、
昔の誰かを裁くためではなく、
あの頃には見えなかったものを、
今の自分の目でもう一度見てみることなのかもしれない。
そして私は今、
かつての両親と同じように、
誰かの「親」をやっている。
いつか私の子どもたちも、
大人になって自分の幼少期を振り返る日が来る。
その時、
私は子どもたちの記憶の中で、
どんな母親になっているんだろう。
そんなことを少し考えた。
まだまだ書こうと思えば、いくらでも出てくる。
小学生の頃、中学生、高校生。
家族のこと、人間関係のこと。
今の自分につながっている出来事も、きっとたくさんある。
でも今日はここまで。
こうやって文章にしてみると、忘れていたことまで不思議と思い出す。
楽しかったことも、嫌だったことも、寂しかったことも。
全部ひっくるめて今の私ができているんだろう。
過去を振り返ったところで、何かが変わるわけではない。
それでも、34歳になった今だから分かることもある。
当時はただ怖かった母のことも、
若かった両親のことも、
優しかった祖父母のことも、
そして、声を出さずに泣いていた小さな自分のことも。
今なら少し違う目で見ることができる。
まだ人生の途中。
これから先だって、何があるか分からない。
だからまた時間があって、昔のことを書きたくなったら続きを振り返ろうと思う。
今日はここまで。
昔の私も、今の私も。
なんだかんだ、今日まで生きてきた。
今日も何とか。

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