以前ブログに記載したように、私は産まれた時から学会だった。
凄く嫌いだった時期を経て今では教えを進んで多少学ぶようにはなり今は信心もしているが、いまだ学会というと嫌われているかもしれない、どう思われるだろうという恐怖心が無くなったかといえば完全無くなったわけではない。
私がなぜそこまで創価が嫌いなのに、脱会しなかったかという点について今日は綴る。
なぜ私が脱会しなかったか、というより出来なかった。脱会のやり方も調べて理解したし実行もできた。でも出来なかった。なぜかというと、家族が大好きだったから。
恐らく今の時代や世間から見たら家は毒親とかいわれる部分もあるとと思う。(詳しくは今後生い立ちで記載予定)凄く社会的に立派なのかと言われたら別に普通より少し厳しめの家庭だと思う。それでも私は身内を尊敬し、誇りに思っていたから。私の中で創価学会を否定するということは親も身内をも全て否定し拒絶するということ。ということは親から生まれて色んな事を学んできた自分自身ですら、否定することになるということ。
そこまでして誰のためになぜ脱会しないといけないのかと当時の私は思った。
ていうか、今でも思っている。今までの自分を支え、一番に思い、考えてくれたのは身内や家族以外ほかにいないから。
それに、ネットでこそ批判的な意見が多く見受けられるが、実際に学会のことを打ち明けて直接批判されたり文句を言われたりしたことがなかった。
私が実際に接してきた学会員の人たちは、社会的な肩書きがある人ばかりではなかった。でも、私には「心がきれいだな」と思える人が多かった。
ネットで言われていることより、私にとっては、自分の目で見て、自分で感じたことのほうが信じられた。
中学生の頃の私は、嫌々ながら親に言われて創価学会について学び、「任用試験」という試験を受けた。合格はした。でも正直、難しい内容は今もほとんど覚えていない。
でもそれをきっかけに、私は思った。
信じる、信じない以前に、一度ちゃんと勉強してみよう。
人から聞いた話やネットの情報だけじゃなく、自分の目で創価学会という宗教がどんなものなのか見てみよう。
そう思うようになった。
そして今ではこう思っている。
創価学会の会員数は日本だけでなく海外にもたくさんいる。
そんな大きな組織の中で、全員が同じ考えを持ち、全員が立派な人なのかと言われたら、それは違うと思う。
人間は完璧じゃない。
同じ学会員でも、「この人は素敵だな」と思う人もいれば、「この人とは合わないな」と思う人もいる。
それは創価学会に限った話じゃなく、学校でも会社でも、どんな集団でも同じことだと思う。
人数が多くなればなるほど、いろいろな価値観を持った人が集まる。
中には組織を利用しようと考える人がいるかもしれない。
欲や感情がぶつかることだってある。
それも、人間だから。
だから私は、「創価学会」という一つの名前だけを見て判断することはやめようと思った。
ネットの情報も一つの意見。
実際に会った人も一つの事実。
そして、自分が学んで感じたこともまた一つの事実。
その全部を見たうえで、自分で判断したかった。
だから私は脱会しなかった。
誰かに言われたからでもなく、親に言われたからでもない。
自分で見て、自分で考えて、自分で選んだ結果だった。
もちろん、今でも創価学会のすべてに賛成しているわけじゃない。
疑問に思うこともある。
「それは違うんじゃないかな」と感じることもある。
でも、それでも学会の教えの中には、今の私の考え方や生き方の土台になっているものが確かにある。
そのことについては、また別の記事で書いてみようと思う

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